2008.06.01(日)“イメージ” // New Order - Everything's Gone Green

[20080601]あの恐るべき山崎製パンの【ランチパック】を買い、おお2つ入ってるやん意外といけるかもなどと思いながら貪りつつ、破いた外装の袋を見ていると、誰もが幾度となく目にするであろう例の必殺フレーズがそこにあった。
「写真はイメージです。」


写真はイメージである。この恐るべき同義反復。
映画は音と映像である(son-image)。いやそれは関係ないや。
そうだ、写真がイメージでなければなんだというのか。それは味覚か、観念か、大遅刻か。
写真は物そのものではない、イメージなんだ。それはつねに「何か」についてのイメージだ、というわけなのか。いや待て、じゃあ写真そのもの、写真自体とは何かと問うことは可能なのか。それは物質か。現像された写真なのか。いやしかし果たして写真の写真たるゆえんは物的形態としての写真にあると考えることは正しいのか。写真がいかなる姿態として現われようとも、やはりそれらは等しく写真なのか。問題は写真の形相であるとは言えまいか。現代においてそれはデジタル・データとみなすほかはないのか。しかし画像データにおいてもやはりデータの水準で(複数の)形式があるとするならば、すなわち問題は、イメージとはなんなのか、

そんなことはさしあたりどうでもいいので、要するに、かのフレーズは、「この写真と実物は、似ているけどちがうんですよ/ちがうけど似てるんですよ」と言ってるわけだ。
もっと言えば、「同じだけどちがう/ちがうけど同じ」ということになる。
なんとも眼を眩ませるような意味作用! とかなんとか言いつつ、結局これは「看板に偽りあり」ということに落ち着くように思われよう。なんと平凡な結論。
商品を買うということが、その実物の商品と商品のイメージを買っているということを意味するならば、商品の使用価値は二重化しているということになる。
そしてこれは宣伝や広告に馴染んだわれわれにしてみれば当たり前のことだろう。つまり、使用価値の二重化を十分に承知しつつ、そこのズレを無視しているわけだ。
しかしそれにしても商品のイメージとは? それをシミュラクルと言うことはできる。しかし何が何を擬態しているのか。
「写真はイメージです。」とわざわざ注記しなければならないのは、「写真」のほうが「実物」よりも良く見えるからだ。しかも、いうまでもなく、それは売り手の故意である。
ここで、売り手は、「この写真を用いることによってわれわれは商品イメージを実物よりも良く見せています。」というメッセージを発していることになる。オリジナルなきコピー/コピーのコピー、だがしかしここで起こっているのはシンプルな事態だ。要するに粗悪品を売っているのである。粗悪品と言って悪ければ、たいして良くもない物を、良さそうに見せて売っている、ということだ(そしてもちろん、本当に粗悪かどうかなんてのはどうでもいい)。
「要するに」と宣言してまとめるならば、結局は平凡な結論になる。しかし、「写真はイメージです。」などという奇妙(なのか?)な文言を写真とともに商品に添えることで、何やらイメージのめまいが起きる。このめまいが、イメージと実物が別物であるということを納得させつつもそこにあるズレを当のイメージが覆い隠す、という作用を担っているのだ。いやこれは私が勝手に迷宮入りしているだけのことだ。

だから、音楽雑誌を読んでわくわくしながら買ったバンドのCDが期待したよりも良くなかったといってガッカリしたり怒ったりする10代の日々、それは未熟な消費者のエピソードなのだ。
と言いつつも、商品のイメージと実物が「実は」乖離しているということを目前に突きつけられると、(“成熟した”?)消費者は恐慌をきたす。
そしてそれがしょうもない排外主義感情に結びついたりする。
いうまでもなく、メディアが提供するイメージをそのシニカルなマニュアル通りに消費するというのも、賢げに見えて実のところ馴れ合ってるだけのことだ。つまり動物化とは「人間化」なのであって、やっぱりいまだに動物になることこそが問題なんだ?
こんなふうにだらだら屁理屈をこねるのもたまには楽しい。
本当は誰かといっしょに大笑いしながらやるのがいいんだけど。

・2007年07月24日 [2008年06月01日コピペ]



さてお話は変わって

New Order - Everything's Gone Green