引用のaffect

私的な事柄。やや気持ちの悪い。

この間ずっと続く不愉快、気がつけば頭の中を占めてしまうそれを、とにかく追い出したかったので、威勢がいいとずいぶん評判だった本を読むことにする。先日たまたま古本で見つけた、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』なのだが、いまさらこれって恥ずかしいのだろうか。自分としては気にならないものの。


ヴァージニア・ウルフはこんなことを書いているそうだ。(少し略しますが)


[…]それ自体が楽しいから、それをおこなうという楽しみは世の中にないのでしょうか?[…]少なくとも私は時として次のようなことを夢みるのです。最後の審判の日の朝がきて、偉大な征服者、法律家、政治家たちが彼らの報い——宝冠、月桂冠、不滅の大理石に永遠に刻まれた名前など——を受けにやってくるとき、神は、私たちが脇の下に本を挟んでやってくるのをご覧になって、使徒ペテロのほうに顔を向けられ、羨望の念をいくらかこめて、こう言われるでしょう。「さて、この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったのだから」


電車の中でこれを読んで、泣きそうになった。いや、じっさいは泣いていない。
わたしは、決して読書家ではない。読まない本が部屋に積まれているだけだ。だから当然、読書量は多くない。かといって、同じ本をくりかえしくりかえし読むわけでもない。ドストエフスキイを読む小林やマルクスを読む宇野は尋常ではなかったらしいが。
で、わたしはといえば、じつにばかばかしいことになっている。善意と抑圧を混同する、つまり大量のことばを立て続けに発することの効果を考えない、ようするに根本的にデリカシーが欠落しているような人物に、怯えてしまっている、文字通り頭を抱え、文字通り泣き言をこぼさずにはおれなくなっている。そういう近況です。


駅を出て歩きながら反芻した。脇に挟んでいるのが、CDだったら、楽器だったら(サンプラーでも何でもいいけど)。同じじゃないが、同じのような気がする。少し涙が滲む。
さて、この者たちは報いを必要としない。


その夜、祖父が亡くなった。
零細企業の社長だった祖父が、もしかすると10年近く前に言ったことばが印象に残っている。この歳まで商売をやってこれたのは幸せだと。


今日、"After The Gold Rush"と"Tonight The Night"を聴いた。祖父のレクイエムにふさわしい音盤をわたしは持っていないようだった。


もちろん、ニール・ヤングは悪くない。しかたない、自分は自分のやりかたでやるしかない。けっきょく、やりたくないことはどうにもうまくこなせないとしても。それは自分の意志の問題ではない。だって、やろうとしてもできないんだから。そうかんたんに能動性なるものを信じられるはずがない。
だから、人が引いてきたことばを引くとか、そういうやりかたで。「自分の」やりかたとも言えないわけなのだ。引用というものは、確かに一面、権威を笠に着ることではある。しかしそれに尽きるものでもないと思う。とにかく、誰でもつぎはぎのことばを勝手にやりくりするほかはないのだし、ここでうまく言い繕う必要もない。