引用のaffect

私的な事柄。やや気持ちの悪い。

この間ずっと続く不愉快、気がつけば頭の中を占めてしまうそれを、とにかく追い出したかったので、威勢がいいとずいぶん評判だった本を読むことにする。先日たまたま古本で見つけた、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』なのだが、いまさらこれって恥ずかしいのだろうか。自分としては気にならないものの。


ヴァージニア・ウルフはこんなことを書いているそうだ。(少し略しますが)


[…]それ自体が楽しいから、それをおこなうという楽しみは世の中にないのでしょうか?[…]少なくとも私は時として次のようなことを夢みるのです。最後の審判の日の朝がきて、偉大な征服者、法律家、政治家たちが彼らの報い——宝冠、月桂冠、不滅の大理石に永遠に刻まれた名前など——を受けにやってくるとき、神は、私たちが脇の下に本を挟んでやってくるのをご覧になって、使徒ペテロのほうに顔を向けられ、羨望の念をいくらかこめて、こう言われるでしょう。「さて、この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったのだから」


電車の中でこれを読んで、泣きそうになった。いや、じっさいは泣いていない。
わたしは、決して読書家ではない。読まない本が部屋に積まれているだけだ。だから当然、読書量は多くない。かといって、同じ本をくりかえしくりかえし読むわけでもない。ドストエフスキイを読む小林やマルクスを読む宇野は尋常ではなかったらしいが。
で、わたしはといえば、じつにばかばかしいことになっている。善意と抑圧を混同する、つまり大量のことばを立て続けに発することの効果を考えない、ようするに根本的にデリカシーが欠落しているような人物に、怯えてしまっている、文字通り頭を抱え、文字通り泣き言をこぼさずにはおれなくなっている。そういう近況です。


駅を出て歩きながら反芻した。脇に挟んでいるのが、CDだったら、楽器だったら(サンプラーでも何でもいいけど)。同じじゃないが、同じのような気がする。少し涙が滲む。
さて、この者たちは報いを必要としない。


その夜、祖父が亡くなった。
零細企業の社長だった祖父が、もしかすると10年近く前に言ったことばが印象に残っている。この歳まで商売をやってこれたのは幸せだと。


今日、"After The Gold Rush"と"Tonight The Night"を聴いた。祖父のレクイエムにふさわしい音盤をわたしは持っていないようだった。


もちろん、ニール・ヤングは悪くない。しかたない、自分は自分のやりかたでやるしかない。けっきょく、やりたくないことはどうにもうまくこなせないとしても。それは自分の意志の問題ではない。だって、やろうとしてもできないんだから。そうかんたんに能動性なるものを信じられるはずがない。
だから、人が引いてきたことばを引くとか、そういうやりかたで。「自分の」やりかたとも言えないわけなのだ。引用というものは、確かに一面、権威を笠に着ることではある。しかしそれに尽きるものでもないと思う。とにかく、誰でもつぎはぎのことばを勝手にやりくりするほかはないのだし、ここでうまく言い繕う必要もない。

行けなくても #410nonukes

ブログでは基本的にまじめなことしか書かない私ですので、いつものごとくクソまじめでたいくつなことを書きますよ。


しらじらしいとしか思われないかもしれませんが、やはりこのたびの震災・津波で、なんといえばいいのか、被災地の方々はほんとうにたいへんだと思います。わたし自身はいまのところほとんどなにもできていないですが、長期戦なので、まだまだこれから募金などできることをやっていくつもりです。
このブログは是非。 http://blog.goo.ne.jp/flower-wing 少し下にスクロールして、3/23「1、被災地へ。」あたりからどうぞ。


念のために確認しておきますが、この災害がひどいものになっている大きな理由の一つとして、原発の事故があります。
わたしは西日本在住なので地震津波にしても放射能にしても直接的な脅威は及んでいないのですが、そんなことは関係ない。
何人もの東京の知人が放射能への不安を口にしています。当然だと思う。一般大衆の科学リテラシーの欠如をバカにする人もいるけれど、そういう問題なんだろうか。ほんとうに安全ならそのほうがいいに決まってる。でもじっさい、TVに出る学者たち、はじめはみんな「たいしたことない」って言ってたのに、どんどんひどいことになっていったじゃないですか。
それに、もし仮に東京が完全に安全だとしても、この事故はひどすぎる(細かいことをわたしが解説しようとしてもしょうがないので、ここでは一切ふれない)。ほんとうに、許し難い。
わたしは前から原発の問題について関心はあって、ツイッタでは、原発関連のニュースなどを見かけたらRTするようにしてきたつもりだけど、詳しいわけではなかった。そんなわたしでも、いろいろやばいことやおかしなことがたくさんある、というのは知らないわけじゃなかった。で、今回の事故。
「想定外」をなくすことなんてできない、なんて妙にものわかりのいいことを言う人なんかもいて(…その人物が、普段はジェンダーセクシュアリティの問題に関してとても繊細な感覚と論理で反応していることを考えると、奇妙な印象を受けざるを得なかったりもするのだが)。そりゃあ「想定」というのは一定の範囲を意味するんだから「想定外」っていうのは常に存在するでしょうよ。でもそういう話じゃない。今まで、国も電力会社も、「原発は絶対安全だ、クリーンだ」と、くり返してきた。何度も何度も。その一方で、原発の問題に関して、国や電力会社の隠蔽体質は明らかだったし、どこかで事故が起きても情報の公開は不十分だった。そういう極めて政治的な歴史があって、そして現在の事態に至っている。
(いや、そもそも「想定外」じゃなかった、という話も、ずいぶん出てきてるわけだが)
だから、いろいろ公式に出される情報が信頼されないのも、当然だと思う。そういう過去がある。信用を失っても仕方ないようなことが、ずっと続いてきた。その結果、こんな事故が起きてしまった。最悪ですよ。
もちろん、今は国や東電にがんばってもらわなければ困る。でも、だからって、連中は決して免罪されない。いま現場で、文字通り必死の作業をしている人たちのことを気遣うというのならば、なんで彼らが命を賭けなければならないようなことになってしまったのか、誰もが考えなければおかしい。「今は東電を批判するな」というのはどういうことなのか。じゃあ後からキッチリ批判するの?
それどころか、経団連のボスの米倉弘昌氏は、これからもガンガン原発推進するぜ、みたいな発言をする。わけがわからない。ていうかやばい。もう、福島の方々にほんとうに申し訳ない。


どうも、うまく書けない。でも、同じようなことはすでにいろんなところでさんざん語られているし、同じような気持の人もたくさんいると思う。


今すぐ、すべての原発を止めろ! と思う。
いや、もっと前に、そうすべきだった、と思う。


「そんなこと、現実的に無理」という声が即座に返ってくる。
そんなことわかってる。
じゃあ少なくとも、今すぐにすべての原発をきちんと点検して、危ない原発は止めるべきじゃないでしょうか。そして、今後10〜15年くらいまでを目処に、少しずつ代替エネルギーに移行して、原発をなくしていく。日本の技術がすごいというのなら、原発じゃない方法の開発に力を集中すればいいと思うのですが、いかがでしょう(原発は安いという「定説」に対する疑義もかなり出てきてるし)。
今回のことでさすがに方向転換するんじゃないか、という意見もある。しかしわたしは、それは希望的観測だと思う。これほどの事故が起こった後でも都知事の石原氏は原発推進を明言。放射線による健康被害を低く見積もろうとする傾向は根強い(勝間なんとか氏はとりわけ見苦しい例)。その他、事故は「反対派」が新しい原発導入を阻止してたせいで起きたとかいうデタラメ、先の経団連会長の発言などなど。
「今すぐ、すべての原発を止めろ!!!」というくらいの主張が相当強くならなければ、少しずつ原発から移行するという方向性の議論でさえ、かなり難しいはず。これが、実戦で核兵器を使用された国の、現状です。


原発はやめたほうがいい、と考える人は、少なくないと思う。しかしそれらはまだ、一個人の、バラバラの、私的な意見にとどまっている。一個人の私的な意見は大事だ。でもそれらが集まって、原発に対する巨大な本気の疑問符として、社会的な実在となって出現しなければ、このまま無視され、抑え込まれてしまう。もちろん選挙も、機会の一つではある。しかし重要なのは、決定の次元に強力な圧力を加えることであって、ある限定された手続きだけをありがたがることではない。何より、まともに取り上げるに値しないとされてしまっていた声を、世に知らしめなければならない。現実の空間・場所において、あちこちで、いろいろなひとが集まり、大きな“群れ”となって、動き、要求を掲げること(「情報に翻弄される群衆」ではなく)。
ドイツでは、何万人もの規模の反原発デモが起きた。日本とドイツでは政治文化のようなもの(?)がずいぶん違うから、同じようにはいかないだろうが、すでに東京をはじめ、名古屋、札幌、京都で反原発のデモは行われている。たとえばこれ。 http://pwkyoto.com/news/info/110403-2.html


で、4月10日には、東京・高円寺で、反原発デモがおこなわれる。
http://410nonuke.tumblr.com/

いつも、素人の乱の界隈の動きは、頼もしい。わたしは参加できないのですが、少しでも情報を広める一助になればと思う。
こんなブログの記事なんてあってもなくても変わらないのはわかってるけど。いや、そんなことわかりきった話で。とにかく原発やめよう。


おまけ

エジプト革命はどうなってしまうのか

ここ数日のエジプトの状況はすごいことになっていて、アルジャジーラのライヴ中継から目が離せない。
http://english.aljazeera.net/watch_now/
といっても、わたし自身はアルジャジーラをはじめとする報道を十分チェックできているとはとても言い難い。基本的には、ツイッタにログインできる時間に後追いしている程度。ていうか無理。なんだが、現時点で、カイロのタハリール広場がひどいことになっているようで、居ても立ってもいられず、ブログを書きはじめてしまった。これを書いたからといって何かをやったことになるわけじゃない、それはもちろんそうだけど。

2月1日、タハリール広場に100万人規模の民衆が集まり(エジプト全土では800万人との報道もあったらしい!!!)、ムバラク大統領の退陣を訴える。ムバラクはテレビ演説で、次回の大統領選挙(9月!)に出馬しないと表明したものの、即時の辞任は否定。その後、親ムバラク派のデモが現われ始める。そして、反ムバラク派と親ムバラク派が衝突。


TLで見た情報をざっと羅列。

アルジャジーラ報道、何人かのムバラク支持者は警察のIDを所持 http://twitter.com/nofrills/status/32796644038680577
カイロでの混乱に乗じてムバラク工作員たちは報道関係者を狙っている http://twitter.com/gloomynews/status/32805947483099137
広場の出口を警察や親ムバラク派がふさぎ、反ムバラク派は逃げられない。そこへ投石、火炎瓶 http://twitter.com/haneman5150/status/32818069927632896
CNNでは「親ムバラク派」の襲撃、装備(催涙弾など)、よくできたビラの内容などから「非常によく準備されたもの」と解説 http://twitter.com/mihoetlulu/status/32828083018928128
ビルの上から、タヒリル広場の人が沢山いる場所に向かって火炎瓶が投げられている http://twitter.com/nakano/status/32827045310365698
ムバラク支持派はコンクリートブロックを屋根から反対派に落としている http://twitter.com/Hvemerdu/status/32826458661462016
フランス24「親ムバラク派の暴力の背後に政府の権力があることは疑いようもない」 http://twitter.com/Tamny_in_Africa/status/32824697221545984
エジプト国内で強盗や盗難、暴力が拡大している件で、少なくともその一部はムバラク政権の放った武装私服工作員が社会不安拡大を狙い実行した作戦 http://twitter.com/gloomynews/status/32369741733568512


この期に及んで、ムバラク政権は最悪のふるまいを、全世界に晒している。ひどい。


そして最新
カイロ駐米大使館前で抗議デモが始まったとの現地情報 http://twitter.com/gloomynews/status/32842843613564928

*このデモは親ムバラク派によるもの、との情報あり。


今回のエジプトの革命的な盛り上がりについて、以下のブログ記事が参考になると思います。

エジプトの若者からのメッセージ http://bit.ly/hr4FKx
エジプトの夜明け〜新しい一頁へ http://ameblo.jp/fifi2121/entry-10788441634.html
エジプトからの緊急声明 http://bit.ly/fAJAuY

*リンクが間違っていたので修正しました

音盤10回顧

ワタシはこんなものを、という小さな行事。
今年もあまりCD買えなかったし、気になっててチェックできてないのも多いけど。


(タイトルでほぼアルファベット順)

・とてもよい・

Contra / Vampire Weekend

 これはポップ。というか、こういうのがポップでなけりゃ


Cosmogramma / Flying Lotus

 未来の神話みたいな音楽


Halcyon Digest / Deerhunter

 とても好き! インディロック


MAYA / M.I.A.

 賛否両論、というか否のほうが多いかも。燃える


New Slaves / Zs

 ノイズ系。かっこいい。日本盤は盛りだくさんで満足度高


O / Oval

 ほんとに久しぶり、こんなのになるとは想像もしなかった。でもオヴァルの音。よい


・よい・

A Sufi & A Killer / Gonjasufi

 なんとインチキくさい


Indoor Odyssey / hadald

 力作 http://www.youtube.com/watch?v=y8TbfivWoMQ
 http://www.myspace.com/hadald


・旧譜・
[2009]
Bitte Orca / Dirty Projectors

 これはかっこいい


Real Estate / Real Estate

 この気怠さはたまらん



(今年のPerfumeのシングル3枚はどれもよかったけど…)



ちょっと本も。順不同

来たるべき蜂起 / 不可視委員会 訳:『来たるべき蜂起』翻訳委員会 彩流社

 悪い冗談そのもののような世界で、やけくその暴動は、新たな共同性を作り出そうとする果敢な実験


スラムの惑星 / M. デイヴィス 訳:篠原雅武・丸山里美 明石書店

 このあたりの事情をよく知ってる人にとって何ら新しい情報は含まれてないのかもしれない、が、事態がこれほどまで進んでしまっているということを、多くのひとが十分認識しているとも思えない。ゆえに21世紀序盤の必読書、タイトルに偽りなし


ポストモダン共産主義 / S. ジジェク 訳:栗原百代 筑摩書房

 これを挙げた理由は、コンパクトな新書だからという、ほとんどそれだけである。訳とか邦題とかいろいろケチがついたりもするが、現代の左派の矜持を再確認するのによい


金融危機をめぐる10のテーゼ / A. フマガッリ・S. メッザドーラ編 訳:朝比奈佳尉・長谷川若枝 以文社

 “認知資本主義”とも呼ばれる資本主義の現段階を批判的に分析するためのアイデア集。C.マラッツィ『資本と言語』(人文書院)もあわせてどうぞ


アルチュセール ある連結の哲学 / 市田良彦 平凡社

 待望の、おそるべきアルチュセール論。このブログでこの本について書くつもりが未だ果たせず

Perfumeの新しいシングル。VOICE / 575 #prfm // Deftin ...

VOICE 。
もはや、あからさまなAutotune使いは聴き取れない。そして曲全体を通して、3人のユニゾンで歌っているように聴こえる。
「VOICE」というタイトルそのままに。


メロディが秀逸。イントロなどの装飾として部分的にエスニックなフレーズを用いるJポップの曲はよくあるが、「VOICE」の場合、サビに中華風。そこが非常によい。
チャイナ風と言っても、音階だけみれば、ふつうのペンタトニックである(それはこの曲に限らない)。そう聴こえさせるのは、メロディの譜割、および総合的なアレンジの工夫によるものだろう。イントロの捻ったコード展開もナイス。


曲の構成、あるいは音の面でいえば、いつもの中田ヤスタカ節で、派手な新機軸はないと言っていい、にもかかわらず、ますますブラッシュアップされている気がする。個人的には、「love the world / edge」以来の名シングルだと思う。


2曲目「575」も、いいじゃないですか。4つ打ちだけで押し切らない、このくらいのテンポの曲も板についてきた。このての歌詞は個人的にはどうでもいいのだが、ラップが意外に悪くない。ただ、同じラップを2回繰り返すのはちょっとどうなのか、と思わないではないけれど。
このての歌詞は…と言いつつ「575」の歌詞の話。これは前回のシングル「不自然なガール / ナチュラルに恋して」に引き続き、ひとりの男性をめぐるふたりの女性のことば、という設定になっているように読める。ただし今回は、1曲の中で歌のパートとラップのパートで分担。前回からストーリーの続きと見るならば、それぞれの関係性、心理、さらにはふるまいも、変化してきたようだ。
うーん、やるねえヤス。


このシングルでPerfumeは、楽曲、およびそのVOICEの魅力によってますます支持を広げることができるだろう。



さて、あまり話は変わりませんが

love the my rap ~中田ヤスタカさんに贈る歌~
by Deftin

補足の補足 // Buraka Som Sistema - Kalemba (wegue wegue)

メモ。




前回のエントリ http://d.hatena.ne.jp/anythign/20100509/1273338238 についての補足。


今回は2点に絞る。


まず、スラムについて。
クルーグマンの原文は1997年。その後、全世界で、スラムは減少したか。おそらく、むしろ反対なのではないか。
地球の都市化は止めどもない勢いで進行中である。現在の都市人口の膨張の大部分を占める第三世界の都市化は、かつての先進国におけるそれとは異なる相貌を示している。都市の爆発的な成長は、都市経済の成長を伴っていない。M. デイヴィスの『スラムの惑星』を見よう。「地球上には人口数百から100万人以上まで、おそらく20万ヶ所以上のスラムがある」。「スラム居住者は先進国では人口の6%にすぎないが、後発開発途上国ではなんと78.2%に相当するのだ。これは世界の都市人口の3分の1に等しい」。「スラムの「成長」は、都市化そのものを凌駕してきた」。


この間、経済のいわゆるグローバル化は着実に進行してきた。
マニラのスモーキーマウンテンのようなゴミ山に住まなければならない人びとは、企業活動のグローバル化によって消滅するだろう、とクルーグマンは書いていたと思う。
端的に、事態は、そのようには進んでいない。
クルーグマン自身、スモーキーマウンテンから人がいなくなったのは「フィリピン警察が強制的に退去させたから」と書いている!)


もちろん、スラムの爆発の責任はすべてグローバル企業にある、と断言できるわけではない。開発途上国の政府に相当大きな責任があるのは間違いない。
しかしいずれにしても、「魂なき多国籍企業や地域の強欲な起業家たちの行動の意図せざる間接的な帰結」によってスラムが消えてなくなる、などとまじめに考えるのは、余程の楽天家でなければ無理な話だ。



次に、クルーグマンダブルスタンダードについて。
彼はこう書いていた。
「国際労働基準を独善的に求める声」。
たしかに、多くの第三世界ですぐさま先進国並みの労働基準を遵守させることは、現実的には難しい。しかしクルーグマンが言っているのはそれ以上のことのように思える。国際労働基準を求める声を、「一種の選り好み」と形容しているのだから。


一方、彼はこんなにすばらしい言葉も、書いているようだ。別のところで。
「社会的公正と進歩は手に手を取って進むことができるんだよ」。
http://bit.ly/8qOHDm
原文は http://www.nytimes.com/2010/01/11/opinion/11krugman.html
アメリカにはびこる経済のドグマに対して、ヨーロッパの経験から学ぶべきことがある、と。
アメリカ人に対して、こう言っている。


実にすばらしい。


H. チャン『はしごを外せ』によれば、そもそも先進国は、自分たちが経済成長する際に用いた方法を、開発途上国には許さない。貿易の自由化に関していえば、現状においても、欧米は多額の(それこそ、アフリカの小国の国家予算に匹敵するような)補助金を農業に投じているにもかかわらず、途上国に対しては保護をやめ自由化せよと強制する。


「社会的公正と進歩は手に手を取って進むことができる」
わたしもそう願いたい。



*前回のエントリは、欲求不満のたまるものだった。クルーグマンは「オレの理屈もわからない青臭い反グロはバカ」という調子で書いているので、ともかくも一旦は彼の論を受け入れた上で文句をつけなければいけない。前回は、そういうつもりで書いてみた。さて、今回は、ストレスを溜めないよう、わたしの感情的な反発をなるべくそのまま出すこと笑を心がけた。と書きつつも、そんなに前回と変わらないような気もする。まぁともあれ、これでつっかえは取れるはずなので、今後ぼちぼちブログの更新も再開される、かもしれない。


ではお話変わって

Buraka Som Sistema - Kalemba (wegue wegue)

グローバリゼーション擁護について私が補足する二、三の事柄 // my bloody valentine - soon Andy Weatherall mix

メモ。


twitterで、P.クルーグマンのエッセーへのリンクつぶやきがそこそこRTされているのを見かけた。
目にしたつぶやきそのものについては、クルーグマンの原文は1997年だけどそのへんのところはどう考えてるのか、という点を除けば、何か言いたいことがあるわけではない。クルーグマンの言ってる内容に関わっていくつかの論点を付け加えておくことにする。

クルーグマンの論説はこちら:低賃金労働を称えて http://bit.ly/cfmn9N
原文 http://web.mit.edu/krugman/www/smokey.html



このタイプの議論は一つの典型だ。そしてクルーグマンは経済学者としては文章がうまい部類に属する。その刺激的なレトリックは、おそらく読者の反応をきれいに二分するだろう。この「低賃金労働を称えて」自体、彼が以前に書いた別の文章に対する強い非難への応答として書かれたものだ。
実を言うとわたし自身は、クルーグマンの基本的主張についてはそれほど異議を唱える必要を感じない。多国籍企業がいわゆる発展途上国(あるいは第三世界)、たとえばフィリピンへ進出するのは、低い労働コストに魅力を感じるからだ。途上国の側では、世界市場で勝負できる技術力を自力で創出することができなかった。多国籍企業が進出先で支払う賃金は、もちろん本国、たとえばアメリカの賃金より低いが、フィリピンにおける従来の賃金よりは高くなるだろう。企業はその相対的な高賃金によって労働者を雇い入れようとするはずだから。もし事業がうまくいけば、途上国の経済は全体として成長し、国民の生活水準も上昇することが期待できる。
オーソドックスな経済学のイントロダクションにこそふさわしい内容だ。ようするに、アダム・スミスのヴィジョンである。自由なビジネスは、やがてみんなを幸福にする。これがうまくいくのなら、すばらしいと思う。
この基本的ロジックに関しては、クルーグマンは嘘を書いているわけではない。問題は、他の事情だろう。このロジックだけでグローバリゼーションや経済発展のプロセスを把握することはできない。全てではないにしても、いくつかの事柄を補足したほうがよさそうだ。複数の要素を組み合わせれば、全体像も変わってくるかもしれない。ランダムに挙げる。


1、
クルーグマンのレトリックは挑発的だと思う。彼は、反グローバリゼーションの主張を、ナイーブさからくる正義感はあるけれど問題を考え抜く努力を怠っている欧米人のナンセンスとして描き出す。わたしの印象では、これは一面的な見方だ。
以前、反G8の活動をしているひとたちの話を聞いたことがある。彼らはG8の問題点について、多くのデータを示しながら筋の通った説明をしていた。もちろん、彼らを衝き動かすパッションを感じないわけにはいかなかった(わざわざドイツからやって来たのだ)。だからといって、その言葉がたんに感情的であるとか思慮不足であるとは決して言えない。
その時に彼らは、インドからの反G8活動についても話をした。多国籍企業の進出が自分たちの生活基盤を破壊しようとしている、だから直接G8の会議の場に出向いて要求を伝えようとしている、といった内容だった。これは一例に過ぎない。グローバリゼーションの問題を批判的に考える国際会議である世界社会フォーラムは、ブラジル・インド・ベネズエラ・マリ・パキスタンケニアなどの各地で開催されている。そして何より特筆すべき南米における運動の高揚。こうやってざっと列挙するだけでも、反グローバリゼーション運動を(むしろオルター・グローバリゼーションと言うべきだけれど)、豊かな欧米人(・日本人)の愚かな善意としてのみ解釈するのは相当な無理がある、ということは明白だろう。


2、
途上国に進出する多国籍企業の動機についてはひとまず措くとして、途上国の政府は何をしていたのか。クルーグマンはこの点についてふれていない。「多国籍企業が進出することで経済発展がすすむ」という過程において、国家の果たす役割は非常に大きい。そもそも多国籍企業が世界中で自由にビジネスを行うということ自体、歴史的な経緯を抜きには語れない。企業の多国籍化は、はじめは先進国間で進行した。第三世界の諸国が輸入代替工業化の戦略を採用していた時代には、先進国の企業は締め出されていた。
輸出志向工業化への途上国の戦略転換が、多国籍企業の進出を可能にした。そこに大きく関わるのが、急速な経済発展のために国民の政治参加を抑圧する体制、いわゆる開発独裁だろう(開発独裁ということばは学術的な概念としては曖昧だという指摘もあるが、いずれにしてもこのことばで指し示される問題が存在しなかったということにはならないと思う)。フィリピン、インドネシア、韓国、台湾、ブラジルなど、多くの国が開発独裁の体制を経てきたと指摘されているし、現在の中国もそうかもしれない。ナオミ・クラインのいう「ショック・ドクトリン」も、問題としては近いところにある。残念なことに、経済発展の陰で多くの血が流されるというのは、かなり一般的な傾向であるらしい。この問題について、多国籍企業は無関係なのかどうか。巨大な権益に関わる有力企業に関していえば、多くの疑惑があるように思う。
経済発展がうまくいけば、政治体制は民主化される傾向にある。とはいえ、豊かさがいかに達成されたのかをきちんと議論しようとする限り、たんに「自由なビジネス」だけで話を済まそうとするのは知的でもなく道義的でもない。
クルーグマンの議論は、基本的にスミスのヴィジョンと同一だと上で述べた。スミスは自由な経済活動を擁護した。同時に彼は、あくどい商売人を強く批判した。「自由な市場経済」を論じる際に、この点は非常に重要だと思う。CSRなんていう概念がどれほど新しいものか、その意味を十分考えるべきだ。国際労働基準についてクルーグマンは「独善的」と書いているが、さすがにここは首を傾げざるを得ない。途上国の低賃金はスウェットショップを正当化する理由にはならない。クルーグマンの論説の訳者氏は、クルーグマンの不用意な議論を補足して、ILOの協定を批准している国ほど投資が流入しているとするバグワティを引用している。ただし、この指標がどの程度実態を反映しているのかはわからない。よく読むと引用文全体の意味も取りにくい。「協定の批准は,労働者が実際にどれだけ保護されているかを判断する材料として適切とは言えない」とも述べられている。
話を戻そう。歴史を少し顧みればわかるように、資本主義は自動的に倫理的になるわけではない。労働問題だけが重要なのではないけれど、わかりやすい例なので挙げておく。労働者の抵抗、そして見かねた国家の介入がなければ、イギリスの資本家は労働時間の上限さえ受け入れようとしなかった。自由の国アメリカでは、大恐慌を経験するまで労働者の団結権・団体交渉権は認められなかった(1947年のタフト=ハートレー法によってその権利は再び制限された)。果たして開発独裁は特殊なケースだろうか。


3、
クルーグマンの論説の主眼は低賃金だったので無い物ねだりをするわけにはいかないけれど、グローバリゼーションの問題を考えようとする際に、国際金融の問題は外せない。しかしこの問題は非常に複雑で、正直なところ手に負えないので、基本的な事項だけを確認したいと思う。
金融とは、お金を必要とする人とお金が余っている人を仲介することだといわれる。じっさいのところ、その「仲介」の部分こそが、極めて巨大かつ複雑なのだが。「資産選択」をおこなう主体にとって第一の関心事は、己の資産をいかに有利に運用するのかということだ、とされる。金融のさまざまな規制を取り払う「自由化」「ビッグバン」「グローバル化」は、そのような資産家たちにとって、そして資金を必要にする者たちにとっても、実に有益だということになる。環境は整った。こうして、資産価格の変動に素早く反応することこそが基本的な行動原理となる。その帰結がバブルとその崩壊であることは言うまでもない。
国際金融の問題とは結局、このような短期的・投機的ふるまいがグローバルかつリアルタイムに連動してしまうことによる、不安定性の増幅だ。サブプライムローンは、途方もなく複雑な操作を通じて広汎な金融商品ポートフォリオに入り込んでいたため、その破綻の影響は甚大なものとなった。このような不安定性のために、金融のグローバル化は、クルーグマンの望むような着実な経済発展を阻害している面があると言ってもいいと思う。

>追記 現状分析としては、さしあたりこちらを↓ http://blog.livedoor.jp/kaneko_masaru/archives/1255123.html

企業の多国籍化と金融のグローバル化の関係について、ほんとうはしっかり考察すべきなのだが、今は準備不足。少なくともこの問題を無視して経済のグローバル化を評価するわけにはいかないはずだ、ということだけ記しておきたい。


まだまだいろいろ不十分ではありますが、最後に一つだけ。
クルーグマンは、「なるほど金持ち資本家たちはグローバリゼーションから利益を得ているかもしれないけれど、いちばん恩恵を受けている人は、そう、第三世界の労働者たちなんだ」と書く。
「いちばん[biggest]」?
第三世界の労働者がグローバリゼーションから恩恵を受けているのだとして、しかしそれが「いちばん」だと言える根拠は、どこに示されているのですか?



さてお話変わって

http://www.youtube.com/watch?v=mi7bQoIBbJY

あ、変わってなかった。


さてお話は変わります

my bloody valentine - soon Andy Weatherall mix
(fanvideo) by base58com