2008.03.14(金)Marx oltre Marx 各章要約 (4)

[20080314]つづき。
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へい!みんな元気かい!先日、久々にライブで絶好調のanythingです。
すっかり遅くなってしまっていますが、第4講です。

第4講議は、「剰余価値と搾取」です。まずは、基本的な論点を確認。
 資本論では、まず価値論があり、価値は労働時間で決まるとされ、剰余価値は労働力の再生産以上の労働時間として定義され、その剰余労働を資本家が取得することを搾取と呼ぶわけです。
 しかしネグリの議論はこれに従わない。まず貨幣の指令という権力があり、資本の支配のもとで生産が行われる。このような資本と労働の交換関係のもとで初めて価値は量化されうるのであって、剰余価値、いやそもそも搾取関係抜きに価値論は可能ではない。ネグリにとって価値論は、剰余価値論からの派生物でしかないということです。

というわけで出発点は貨幣です。「普遍的物質性としての貨幣とそれを隠蔽するイデオロギー」「搾取を指令する政治的現実としての貨幣」「指令を貨幣の物質性として認識した」・・・このようなスタンスは、政治を生産過程の外部に追いやる経済学への「攻撃」です。

ネグリは、生産的労働というマルクスの概念を検討します。たとえばサービス労働などをめぐって、何が「生産的」なのかという問題はマル経においては泥沼状態です。
マルクスは古典派からこの発想を受け継いだのですが、一つは剰余価値を生み出す労働、もう一つは物的生産を行う労働、という規定としてまとめられます。ネグリマルクスによるこの矛盾した定義を退けます。むしろ生産的労働は、「資本家に対立する」「自律した」労働だということになります。

労働を価値の基礎として扱うとして、それはいかなる条件のもとでなされるか。「労働は、交換という形態、貨幣という形態をとる場合にのみ資本へと転化する」交換、すなわち貨幣によって労働が指令されるということ、「労働そのものを交換諸条件に従わせる」ということ。
 交換において、労働と資本が対峙する。これは、生きた労働と死んだ労働の対立として読み替えられる。言い換えれば、主体的労働と対象化された労働の対立である。
これは、ネグリの政治哲学、存在論の核となる図式だといっていいでしょう。すなわちマルチチュードと帝国(『帝国』)、構成する権力と構成された権力(『構成的権力』)。この対立は、使用価値と交換価値、必要労働と剰余労働の対立でもある、とされます。
 このような労働、つまり主体としての、あらゆる富の源泉としての労働は、抽象的な労働集合であり、あらゆる人間的可能性であり、潜勢力です。すなわち集合的労働者です。

労働=使用価値=必要労働という等式は、さらに「=賃金」へと拡張できます。ここから、マルクスが計画しながらも書かれることのなかった賃金論が展開することになります(第7講)。労働者の賃金は使用価値へと向けられるのであって、彼の欲求は交換価値ではない、ということになります。

さて、ネグリによれば「労働の創造力は、もし自由に振る舞うなら、資本を規定する傾向を持たない」「支配の政治的過程としての、社会に対する全面的指令としての搾取のみが、価値と剰余価値の両者を規定する」。敵対的関係を治めることで、労働は資本の生産力となる。結果、「労働は、資本に対立する使用価値であるばかりでなく、資本自身のその使用価値でもある」(マルクス)。
 この関係の内部で、価値の源泉としての労働によって生産される全ての物が資本によって対象化され、資本から指令を受ける(不変資本と可変資本)。すなわち、貨幣で測られる。必要労働は賃金を通じて資本から指令を受ける。「剰余価値の量化は、ここに至って初めて可能となるのだ。というのは、資本が生産の全過程を領有したときに、剰余価値を量化できるのは資本だけだからである。もしこの領有がなければ、量化もないだろう」

このようにして資本が敵対的関係を乗り越えるとき、資本は統一された過程として現れるばかりでなく、それ自体が主体として現れてくる。しかし、資本の力は根本的に労働にもとづいている。資本は、「自分自身を対立性によって定義せざるを得ない」。
こうして、敵対的関係はつねに回帰してくる、というわけです。こうして、資本の価値増殖と再生産の過程は、敵対的関係を再生産する過程であるということになります。
 しかし資本はつねに限界を乗り越えようとせざるを得ない。剰余価値を生まなければ、それは資本ではない。資本は休むことなく労働の生産性を上昇させようとする。
ここから相対的剰余価値が導かれることはいうまでもありません。

ネグリはつまり、資本のダイナミクスはこの敵対的関係にもとづいている、と主張しているわけです。これはかの『帝国』に直接つながる主張です。フォーディズムの危機の時代、世界的な「革命」の季節の混沌が、ポストフォーディズムの生産様式、権力様式を生み出す源泉だったわけです。

まぁだいたいこんなもんですかね。いよいよ本論に入ってきたという感じがしますね。
それでは次回をお楽しみに。さよなら〜

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