空間の生産


いかにして新しい社会空間をつくりだすのか?



何らかの‘場’を占めることのないような,もの,そして生は,ありえない。

歩く。舗装された道路,くすんだビル,ショーウィンドウ,路地裏。地下鉄が地上に出てくる。これら全てはつくられなかったかもしれない(車窓からみえるさら地はずっとあのままだ)。四角い箱状の部屋に帰り(あれば,の話だが),靴を脱ぐ。この靴はどこで作られ,どうやってここに来たのか。メールが来た(携帯?)。どこにいても情報が伝わるのは,あらゆる場所に物的装置があるからだ。

では生きるとは,すでにある容器に住まうことなのか。
それだけではない。空間とは身体の展開なのだから。

集まる,分かれる,うねる,固まる,広がる,散らばる,流れる,偏る。ひととものの運動と結合。生産手段,生産物,生産過程。(アンプとドラムセットの位置関係。フロア。積み上げられたサウンドシステム。ステレオ,音響装置の立体的配備)

社会空間は第二の自然なのか。
人間が自然にはたらきかけるとき,人間は自然にはたらきかけられる。自然のなかで。海や森は,あらかじめできあがった世界なのか。それは,多種多様な生物と非生物が互いにはたらきかけ,はたらきかけられあうことによって織りなされる空間だ。自然はそもそもn次の自然である。

一方で,身体が空間から方向づけられざるを得ないのも確かだ。だから権力は,つねに空間の権力として機能しようとする。場所を,移動を管理し,生活を支配しようとする力がある。

空間は,社会構造にただ取り込まれ,平らにされ,組み立てられ,断片にされるがままなのか。だが,その透明さは,それが透明であるがゆえに,見せかけでしかない。見せかけるためにすら,どこかで暴力が振るわれるだろう。
それが,空間に亀裂が走っていることの何よりの証拠となる。

ひとは空間のなかで生きる。そして生きるとは,空間をつくりだすことでもあるのだ。