2008.06.17(火)自分のことを棚に上げる冗句  // Black Sabbath - War Pigs

[20080617]自分のことを棚に上げる試み




某所で、美術館/博物館の民営化が話題になっていた。

これを読んで、思うところを少し書こうと思った。

が、ちょっと迷った。

でもこれは日記だし、ということでお許しいただこう。



芸術は商売にならない。
この際、芸術なるものの定義はしない。
作り手以外に何が必要なのか。パトロンと評価だ。
パトロンたるべき人物に、最低限の評価能力が求められるのは明らかである。

誰にでも評価はできる、と、一応は譲歩しておく。
しかし、かなり多くの人は、作品の評価,および作品を享受するということに真剣に取り組んだことがない。
真剣というのは、眉根を寄せて長時間悩む、ということに限らない。(ありうることとして、むしろこういう場合には、ある意味で評価はすでに定まってしまっている… 「文句なしですごい」とは断定できないのだから。)
ふまじめなことをまじめにやる、まじめなことをふまじめにやる、そしてときにこの両方が別々のものではなく——そうやって享受したいものだ。

「個人の趣味」という。こういうものは絶対に残ってしまう。
ただし、ほとんどの場合の「個人の趣味のちがい」なるものは、取るに足らない「ちがい」だ。
物事の良し悪しと自分の快楽がはじめから一致している、という見方は、簡単に言ってしまえば、ご都合主義である。

音楽を浴びるようにきいている人の数は、相当なものだと思う。
しかし私が思うに、そのなかのかなりの部分の人にとっては、音楽なんてさほど重要なものじゃない。
もちろんこのこと自体にはいいも悪いもない。
マーケットというものの本質はここにある。
ロックンロール、あるいは(?)ポップミュージックのすばらしいところは、そこにある。
古典的な、というより近代初期の「鑑賞者」のモデルは終わったのだろうか。
だからベンヤミンみたいに、異なって感覚することの内にある積極性をものにしたい。

私にとっては、クラシック音楽というのは多少近寄りがたい領域だ。
とはいえ、自分のこれまでの(別の文脈の)蓄えをもとに、何らかの判断ができないわけじゃない、とは思う。
ただ、明らかにわからない世界はあるはずだ。
いわゆる現代曲と呼ばれるものの場合でも、いいと感じられるものもないではないが、いくら有名でも「これはちょっと勉強しないとな…」ということがある。
もちろん、いくらお勉強したってしょうがない。
基準を固める段階も不要とは言えないが、大事なのは経験することだ。

(作品に触れること、すごいのから屑まで。作品に対する評価に触れること、すごいのから産業廃棄物まで。ふつうはそうしないと、自分の世界が狭いかどうかも気づけない。museumはそのためになら使えるし、大いに奉仕していただきたい。それからもちろん、何かをつくってみること。表現と言われるものの、じっさいの作業。)

評価するというのは、受動的なものだ。
ひとが、何ものかへと変わってしまうことがある。
人生経験の乏しい私が言うのもあれだけど。

感覚は解放されなければならない。
そのためには、感覚は構成されなければならない。

芸術は普遍的である、あるいは永遠である、というのは夢だ。
誰もがその夢をみるわけではない。
誰かがその夢をみているかぎりで、その夢は他の誰かをさらっていくかもしれない。

ドゥルーズが、「芸術はコミュニケーションではありません」みたいなことを言ってた。
こいつはやはり信用できるやつだ、と思った。

・2005年12月10日 [2008年6月17日コピペ&ちょっと修正]



さてお話変わって

Black Sabbath - War Pigs
Live in Paris 1970