2008.03.14(金)Marx oltre Marx 各章要約 (8)

[20080314]さて、つづき。
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どうもです。
何と前回は去年のxxx月でした。やばいやばい。
何がやばいって、時間たつの速すぎ、その間わしは何をしてたのか?ということですよ。
とにかくやりましょうか。私の感想としては、7講までで一応基本的な論点は出揃ってると思ってたので、8、9講をほったらかしてたということがあります。
第8講義は「コミュニズムと移行」、第9講義は「資本制的発展と革命的階級」。ネグリの意図からすれば、これらのテーマを飛ばすわけにはいかんでしょうね。

 まず8講。ここでは、コミュニズムおよびコミュニズムへの移行という問題の、これまでのマルクス主義による提起方法を批判します。そして、マルクスの方法、すなわち経済学批判は、カテゴリーの脱神秘化であり、さらにはカテゴリーの「転回」へと進んでいくことを主張しています。

 ここまでの講義で、過程が規定する主体的次元が抽出されてきた。しかしその結果としてのマルクスの叙述は、「世界市場の矛盾からコミュニズムは生じる」というもの。これは、主体および移行の問題を考慮していない。つまり、歴史の必然、弁証法といったものでは、全く良くない。また、コミュニズムユートピアでもない。
 ネグリによれば、「移行がコミュニズムにおいて姿を現わす(そしてその中に消え失せる)のではなく、コミュニズムが移行の形態をとる」。この表現は、はっきり言って分かりにくい。ネグリは、いままでのやり方は移行の問題を消してしまうのでダメだと考えているようです。

 アルチュセール人間主義を批判したが、その場合の人間主義は、歴史を人間性有機的展開と考えるものだった。これは正しかったが、しかし、主体の理論を排除するのは誤りである。コミュニズムが移行形態をとる、と言うことは、敵対主体性の物質的構成を貫く「赤い糸」に我々が従うことを意味する、とネグリはいう。

 (経済学批判要綱」での)マルクスの方法を要約するならば、1、パラドックスにもとづくのではなく、経済学と政治学の全体的な統一と転形にもとづく。2、力関係の形態の多数性から帰結することとして、分析タームの不意をうつこと、持続的転位。
3、カテゴリーは主体の変化とともに変化する。
 経済学批判の諸カテゴリーは、コミュニズムの形成という主題という契機によって脱神秘化される。マルクスブルジョワ経済の歴史的把握において、現在の諸条件が自己自身を止揚する条件としてあらわれる」
 例えば、貨幣は、その積極面においては社会的・集合的な力であり、個体性発展の第3段階を画す。ゆえにそこに貨幣カテゴリーの転倒の可能性・必然性がある。市場や交換といった概念も同様であり、抽象的カテゴリーは具体的転倒を指示することになる。
 つまり、カテゴリーは二重、「資本制の発展はコミュニズムの過程の転倒したイメージ」なのである。対抗の形態は、資本の「永続革命」の展開につれてますます大きなラディカルな障害となる。この過程に「解は存在しない」。

 コミュニズムの内容を考えてみよう。まずそれは生産力の解放であり、その意味するところは、資本の指令が不要になるということ。対抗的主体は新しい集合的主体として出現するが、それが生産と発展の新しい規則を創出する。
 コミュニズムは労働の解放であり、それは労働からの解放である。労働の廃棄は労働の創造力を最も活性化する。ここについて少しコメント。アレントは労働を人間の行為としては低い位置に置く。それは近代の労働の地位の記述とも言えるわけだが、ネグリは、労働からの解放として労働の解放を示すことで、アレント的な人間の活動の3分割を突き抜けることを構想しているのではないかと感じます。
 ネグリによれば、移行を叙述する以外の仕方でコミュニズムを叙述することはできない。「マルクスのカテゴリーは全てコミュニズムのカテゴリーである」。カテゴリーの二重性から敵対的関係が生じる。敵対的関係はカテゴリー体系の不意をつくことで展開する。この過程が進んで、カテゴリーは転倒される。

 また、理論は歴史過程に割り込むので、その結果として、理論の連続性は不可能になる。「コミュニズムは、それが転形のダイナミックな要素である限りで概念である」
 そこで、コミュニズムの概念に内在する転形に関する主題がどのように歴史的に具体化するのか、が問題となる。過程の中で主体は自分自身を構成しはじめるが、ただ一つ欠けている要素は、認識である。認識は、「障害」の実体化となる。自己表出する主体は、いまだ生産関係の内部に完全に捉えられている。主体が資本に対抗して実行する転回は、再領有ではない。転回は、質的に過程を変化させる。すなわち構成的実践。コミュニズムは資本制的発展の産物ではなく、そのラディカルな転回である。
 
 コミュニズムと計画化というテーマについては、これまでは単に国有化、あるいは卓越した経済合理性に過ぎなかった。むしろ重要なのは多様な経済合理性である。計画化とは、労働の協同的な性質の表現でなければならない。それは資本の指令の物象化の排除である。
 社会主義は価値法則を維持しており、それはコミュニズムの過程ではない。労働廃棄とは、価値法則の転回された記号(転倒)である。労働の拒否は、その投企の全体性によって、複合的な自律性の大いなる多数性を提示する。労働拒否の組織化の程度によって移行は評価されるだろう。

 このような主体については、前もってイメージすることはできない。「移行の形態をとるコミュニズムとは、われわれがその起源を知り、われわれがその行程を共有している一つの過程である。その過程の最後に何が待っているのかは、われわれが前進し、闘うという方法によって以外には知ることができない・・・・コミュニズムの未来は、構築されうるのみである」

  次のメールで、9講をやりますぜ。

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