zerodewaru - monomaniac // 2006.02.02(木)ヨブ

zerodewaru - monomaniac
(zerodewaru = ゼロで割る)



さてお話は変わって


[20060202]やっと先日、ネグリ『ヨブ 奴隷の力』を読了した。
ようするに、旧約聖書ヨブ記がおもしろいということなのだ
(やはりヨブ記を読んでおかないわけにはいかなかった。しかし今そんなものを読んでる場合なのか)。

あらためて、存在論なるものはユダヤキリスト教的な世界(観)に深く根ざしているのだ、という印象を強くした。
パルメニデスの、存在する一者とかその辺から来ているといわれるけれど,細川亮一がいうには、なんといってもプラトンだそうな。


夕焼けが美しい、フェルメールが美しい、鼻のラインが美しい、などというわけだが、ではそもそも「美しい」とはなにか?ということを考えてみると、ちょっとよくわからない。
「美のイデア」をここで持ち出すプラトンは必ずしも馬鹿馬鹿しいわけではない、どころかそれなりに理屈が通らなくもない話をやっていた、ということだそうな。


同じやり方で、
コップがある、パソコンがある、ペンケースがある、という具合にいろいろなものがあるのだが、そもそも「ある」とはなにか? というところにのめり込むのが「存在論」、らしい。


唯名論唯物論の控えの間である」という言葉に従って、私としてはこれは(広義の)プラグマティクスの問題としてとらえたくなるのだが、
つまり、そういう風に思わせるほど、存在論というものの基本的な視角は、言語論的なものでもあったということになろう。
しかし、ハイデガーなんかの雰囲気は、たいして読んだわけではないけど、このようなある種の形式的な問題に還元できるとはとても思えない。
「頽落」とか、時間の話とか。坊主くさいといわれたりするのは、多分、まるっきりの見当違いというわけでもなさそうだ。
やはりギリシャ的思弁だけでなく、ユダヤキリスト教を抜きにはありえない(←当たり前)。


さてネグリの「存在論」は、「“ある”とはなにか」というようなかたちで問いを立てることを全然しない。
なんといえばいいのか、ここではとりあえず、それは「生のあり方」を問題にしようとしている、ということにしておく(あまりいい言い方ではないが)。
それが旧約『ヨブ記』の読解として綴られているのだから、それがユダヤキリスト教的な文脈における話になるのは当然すぎるほど当然なので、それをもって「けっきょく存在論っちゅうもんは…」とか言ったら「お前アホやろ」と言われてしまうでしょうが。


しかし賢明な読者諸氏が宗教的バイアスを抜いてこの書を読むことなどいとも容易いだろうから、この日記のはじめで書いた印象は、印象として記しておくことにする。


「哀しみ」ということを重視しているのは、一般的なネグリのイメージからすると意外なところかもしれない。
確かに、恐れ/恐怖は、戦う原動力にはなりにくいだろうが。
compassion、すなわち“ともに苦しむ”、というところから、共同的なもの(翻訳『マルチチュード』における<共 common>?)が生まれてくる、というようなことが述べられている。


訳者の仲正昌樹氏の解説は非常にすっきりしている。
しかしネグリの書いたものは、ハートとの共著とちがって、やっぱり要約に抵抗するところがある。
ていうか、わけわからんのだ。



吉野家のメニューから牛カレー丼が消えた。
なんてことだ。
新しいカレーは、値段はいっしょだが別のもんになってしまった。
第一、丼ではなくなった。
いや、失礼した。丼かどうかは第一じゃない。
ペラペラの牛がなくなった。玉葱(おぅ、こういう漢字か)もなくなった。ルーの味も変わった。
つまり何もかもが失われたのだ。
300円を切るという価格設定での絶妙なバランスが、損なわれてしまった。
しょうがないから、すき屋の豚[ton]丼(並)に乗り換えようか。
しかしすき屋は、セットメニューの安さはよいが、あまりうまくない。

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カレー丼なつかしいw